• 2016.2.17
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大阪にも真田ゆかりの新スポットが誕生

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2月1日、大坂冬の陣にて大阪城の出城「真田丸」の跡地とされている天王寺区餌差町にて、顕彰碑が建立され、1日に除幕式が行われました。
大河ドラマのタイトルにもなっている「真田丸」は、元々は大坂の陣の際に出城としてここに築かれたものです。豊臣方に加わった真田幸村は、ここで徳川勢を一網打尽にしました。
ですが結局は冬の陣は講和。そこで真田丸は埋められてしまうのですが、大河ドラマ効果もあり、遊び場と言うと大げさですが、新スポットになるかもしれません。
一方で、そもそも大坂の陣とはどのようなものだったのか知らない人も多いのではないでしょうか。
歴史マニアであればもはや説明不要の物ですが、あまり詳しくない人や歴史に興味のない人にとっては、大坂の陣がどのようなものだったのかなどあまり良く分からないでしょう。
そこで、いろいろな角度からこの新スポットが出来るきっかけとなった大坂の陣に関していろいろとお話をしてみるとしましょう。

・二元状態だった

大阪市長だった橋下徹氏は「二重行政の解消」を訴えていましたが、大坂の陣の前は、それに近い状態でした。
当時、江戸幕府が開かれたと言っても、現在の行政のように「幕府開幕式」とかが行われる訳でもなく、江戸に本拠地のある徳川家康が征夷大将軍になった。
そして幕府を開く。幕府とは、字からも分かるように「幕の府」、つまりは大がかりな前線基地だったのです。
一方、日本は「泣くようぐいす平安京」の覚え方で知られているように、平安京に都が移されてから、以降京都が中心地でした。
大阪に本拠地を構えていた豊臣家、特に秀吉の遺児の母親である淀君からすると「江戸なんて田舎で何をやっているんだ」だったのです。
そもそも、今でこそ東京は日本の中心ですが、当時の江戸はまだまだ田舎。
ですが徐々に江戸で何かを発表したり、中心になっていきました。すると、大阪や京都の人間は「?」となっていったのです。
特に同じ武家でもある大阪城の人間たちからすると、「江戸で何をやっている」になっていったのです。

・関ヶ原の合戦はあくまでも「豊臣家の内紛」

関ヶ原の合戦と言えば「天下分け目の決戦」とも言われていますが、少し内情を探ると、いわば豊臣家に仕えていた大名である徳川家康と石田三成を中心にした派閥の争いでした。
つまり、「豊臣家の内紛」とも捉えられるのです。淀君からすると「夫に仕えていた大名たちの小競り合い」程度でしかないのです。
ですから、徳川家康が征夷大将軍となり、幕府をとなると「家臣の分際で何をしている」となっていくのです。
大坂の陣のきっかけは、徳川の世になったものの、まだまだ豊臣の世だと思っていた淀君の傲慢さからでもあるのです。

・全国に浪人が溢れていた

関ヶ原の合戦によって、新しい領地分布が決まりましたが、西軍に与していた大名は減封、あるいは配流。現在の価値観で言えば、言うなれば「解雇」「減俸」です。
そのため、江戸時代前半は浪人で溢れていました。現在の世の中の言葉で言えば「失業者」になります。
かつては武士だったものの、仕えていた大名、つまりは雇われていた会社が倒産・規模縮小となってしまって解雇された武士がとにかく多かったのです。
そのような武士からすると、何でも良いから戦いたかったのです。そのためには、大阪は格好の心の拠り所だったのです。
浪人にとっては、豊臣につき、勝てば儲け物、負けても「武士としての有終の美」となるのです。そのような「戦いたい機運」が戦にまで発展させてしまった側面もあるでしょう。

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